想像力という観点から考えたプロジェクト「Act」Tokyoの役割について
安城です。
今回「メンバーの言いたいこと」の初投稿です。第一回ということで、アクトの役割というか、主にアクトの舞台作品について考えたいと思います。
俳優のやっていることは、ありもしないことを想像して、さもあるかのように振る舞うような、言ってみればごっこ遊びです。見る人によっては馬鹿げたこと、くだらないことに映るようなことかもしれません。
演劇でやっていることは、ありもしないことを、さもあるかのように見せること。ある人に言わせれば「こんな話この世のどこにもない」「こんなにうまく話がいくわけがない」「こんなもの見てもこの辛い現実は、何ひとつ良くなりはしない。この歪んだ社会で生きていくという事実は何ひとつ変わりはしない。時間の浪費、絵空事、馬鹿げた妄想、くだらないごっこ遊び」だ、というようなことになるのかもしれません。
そんなことはない! と言いたいところですが、実際そうでもないのかもしれません。
なぜなら、人はあまりに多くの現実を知り過ぎてしまったから。インターネットの普及、特にSNSの登場から、人はありとあらゆること、サンタクロースの正体、女性器の仕組み、他人の人生、他人の経験、よその国の出来事、動物の本能、人間の醜さ、自分は何者か、といったような悲惨な現実や重大な事実をスマホやパソコンの画面を通して手軽に知ることができるようになり、今まで知り得なかったことを想像力で補う必要がなくなったからだと思います。
検索エンジン一発で知り得るような事を想像で補うような馬鹿げたことをするような人はいません。
「想像する暇があったらネットで調べて、さっさと仕事に戻れ。お前がそのくだらない想像に時間を費やしている10分間にこの職場の生産効率は10パーセントも悪化し、本来得られるはずだった利益の20パーセントを逃している」とまあそんな感じになるのでしょう笑
何となく分かるからいいけど、でもどこから生産されて、どこから運ばれて来たのか分からない肉や野菜を、どこの誰が考えたか分からない調理方法で、どこの誰か分からない人が調理した牛丼を食べて、てきとうな「ありがとうございました」を背中に受けて店を出て、どこの誰か分からない人の為に今日も働く。
その過程の中の一つでも想像をすることに意味なんてない。第一つまらない。だって世の中はそういうものだから。
この世の中は人間の手で作られ、操られる一つの巨大な機械で、牛丼が生まれて口に運ばれるまでの過程は一つの生産消費フローという名のプログラムされた巨大な機械運動のごく一部でしかないのだから、機械の動きに想像の余地なんてあるはずがない。
あるいは。世界を想像を介して見通すことが馬鹿らしくなるくらい、この世の中は“リアル”になってしまったのだと思います。
でも、「ありもしない」「嘘で塗り固められた」ドラマや映画や舞台はなくならない。
薄暗くて窮屈ま空間に閉じ込められてトイレを我慢してまで、「時間の浪費」をすることに一体どんな意味なんてあるのでしょうか。
理由は色々あるでしょう。
あえて、一つ挙げるなら、多くの人が心のどこかで「こんな世界があってほしい」と無意識のうちに望んでいるからだと思います。
気が付かないうちに色々なことを想像して望んでいるからだと思います。
人の祖先はおそらく、いや確かに「認識する」ということを覚えたその瞬間から同時に想像するということを始めたのだと思います。
認識という原罪を背負った人間は、この世界の退屈で不条理で理不尽で無情な現実と向き合うことを余儀なくされた。だからこそ、想像の世界に救いを求めるのではないでしょうか。
その想像がいったいどれだけの人を救っているだろう。
そうだとして、改めて演劇の存在価値について改めて考えたとき、やはり一つの到達点が見えてくるのです。
「現実と想像の止揚」
現実だけ見せられてももうたくさんだし、かと言ってどこにもありもしない想像を見せられても興ざめしてしまう。
でももしこの現実の世界の中に救いや理想を求めて実現できる可能性があったとしたら
その可能性を見出すきっかけになることができたら
それを押し付けではなく、作品を通して各々が見出すことができたら
自分自身が少し信じて、生き方を変えることでその想像に近づくことができると信じることができたら
もし本当にそんなことができたら、どれだけ多くの人を救うことができるだろう。って考えるのです。
アクトは、これまでもその他の多くの作品同様、その点を求めていたのだと思います。
形がどうであれ、その方向に変わりはないと思います。
ありがとうございました。
あんじょう