参院選2019で考えたことと、「比翼連理の果て」を観てほしい話

カテゴリー Ai Ozeki, ブログ

生活自体に不自由しない人たちの中には、国政が自分の日常にどう影響しているのかを知ろうとする動機が生まれないのかもしれない。

今回の選挙はすごく重要だと思っていたし、Twitterやネットも盛り上がっているように、私には見えていた。だから速報を見て、投票率半数以下という現実との落差にかなりショックを受けた。

まあ、だってそうだよね。大勢いる候補者の中から投票する人や政党を選ぶとなれば、まず政党や候補者についての知識を得るために時間とエネルギーを使う必要があって、そもそも自分自身がこの社会にどうなっていってほしいのかを少なからず考える必要がある。たった一票で変わるかもわからないのにわざわざ投票所に行って、そこから先は選ばれた人たちに託すしかない。そんなめんどくさくて不確かに思えることなんて考えずに、心に余計な波を立てずに、明日の夜は焼肉に行こうとか考えてる方がよっぽど幸せだと思う。

投票率の低さにはさまざまな背景があると思うけれど、私は大きな要因のひとつはこの「自分で考えることを放棄したほうが幸せでいられる」という空気感な気がする。

そもそも学校教育からそうだ。小学校からずっと授業のスタイルは「先生」の「講義」で、自分の考えを発するよりも、決められた答えを当てる人が優秀とされる。
先生から気に入られている学校生活というのはずいぶんと過ごしやすいもので、私自身もクソ優等生だった自覚がある。(優等生がクソという意味ではなくて、そう振る舞おうとする自分自身のメンタリティがクソだなあといまの私は思っている)
義務教育をとおして「こう言えば正解」「こう考えていることにしたら無難」という思考のしかたが身についた。自分の意見をモデレートして、誰にも非難されない形、ぜったいマルがつく回答にすることにあまりにも慣れてしまった、というか最初からそれが当たり前で美徳だと思っていた。

私は専門家ではないので詳しい実情はわからないけど、いまの日本社会では、学校では「自分の正しさは自分で決めていい、そのために知識をつける」とか「いろいろな立場や意見、解釈を尊重して生産的な議論をする」という態度を「教えて」くれる機会はほとんど無いのではないか。学校生活で得られないのであればそのほかで自分で気づくしかなくて、ということは、なにかきっかけが得られなければ自分で考えることを能動的にしないまま、大人になってしまうのでは…?

私の場合は、幸いとも言うべきかイギリス留学への過程でその価値観はぶっ壊された。でも、「無難でいることの美徳」を内面化したままの人も多いんじゃないかと勝手に推測する。
かくいう私も、私のなかに態度として染み付いているそれを完全に捨て去るにはまだまだ時間がかかりそうだな、と思う。ふとした瞬間に「少し我慢してでも、いらん波風立てないでいるほうが楽」という考えが頭をもたげる。

そんな中でいきなり投票できるぞと言われても、選挙に参加する意義や実感なんて感じないんじゃないか。
そもそも高校で政治について議論をする機会なんてまあ与えられないし(日本の大学ではどうなんだろう)、政治は雲の上の人たちがするもので、よくわからないと感じる人が多数でもおかしくはないよなあ。

もうひとつ。MeTooやさまざまなマイノリティをめぐる問題提起をしている人たちへの反応も、この社会の空気感を色濃く反映していると思ってしまう。だって、「個人の権利のために声を上げると叩かれる」!
それぞれに苦しみがあっても「みんな何かしら我慢してるんだから」とか「個人のことは個人で解決しろ」みたいな風潮も広く蔓延していて、というか日本社会のそれはほとんど病的な気がするくらい、そもそもの制度や考え方に対して声を上げることへの抵抗をすごく感じる。そしてここにも、「無難でいることの美徳」が関係しているように思える。

でも、私たちが生きているこの社会はただ決まった形でそこにあるわけではなくて、実際に誰かの手によって動かされている。投票は誰にでも与えられた、一番わかりやすい「社会を動かす権利」だと思う。だから、それぞれがより生きやすい社会にアップデートしていくために一票一票は絶対に必要な声だ。多くの人にそのことを伝えたいしと今回の選挙を見て思った。

 

と、ここまで書いて、舞台「比翼連理の果て(ひよくれんりのはて)」の上演がもう少し早かったら、参院選2019に行く人がもう少しだけ多かったかもしれないなあと思った。

「比翼連理の果て」は、そういう力を持った作品だと思う。介護殺人というテーマを追う新聞記者の話なので、もちろん直接国だ政治だ行政だという話題にも触れるのだけど、それだけではなくて。私たちが日々生きる日常について思いをめぐらせるきっかけとなる、重要なテーマを含んでいると思う。

たとえばひとつは、知らなかった現実を知ることの重大さ。
物語の主人公・山岡美琴は「ダメ政治家の汚職や失態をバシバシ糾弾してやる!」と意気込む政治部志望の新人記者。しかし上司の指示で不本意ながら入社2年目も社会部所属にさせられ、さらに介護のコラムの取材班に入れられる。

原「人事、残念だったね」
山岡「そう。もう最悪。どうも部長が社会部に留まらせたみたい。しばらく介護の取材とかさせられることになったんだよ」
原「介護?また政治とは随分かけ離れたね」

これは介護の取材をしろと告げられた後の、恋人・原とのシーン。しかしここから、介護殺人の取材をとおして山岡自身の考えに変化が起こる。「本当に政治と介護はかけ離れているのか?」
彼女のこの変化は、社会の中の見えなかった部分が見えたから起こる。自分には関係ないと思っていたことが、実はそうではないと気がつく。そういう体験は、社会生活を考える大事なきっかけになると思う。観劇者の方々にとっても、「比翼~」が何かを考えるきっかけになりうるのではないかと感じるし、そうなったらとても嬉しい。

そしてもうひとつ大事なのは、「比翼~」は介護殺人についてというよりも、介護の果てに妻を殺した老人・林茂男とその妻・幸江の人生の物語だということ。二人の物語をとおして、人の人生を尊く思える作品だと思う。
作・演出の安城が「この作品は一見社会派演劇のようであってそうではないと思っています。この国に重くのしかかる介護問題。事務的で政治的な対策以上に、個々で考えるべき必要な何かが必ずあるはず。そんな思いを込めています」と語るように、たとえば介護問題という議論をどんなに大きくしたって、介護は個人個人の日常そのものだ。
まずは自分の日常、そして人生を大切に思うことが、自分の生きる社会のあり方を考えるモチベーションに繋がると思う。そして社会のあり方を考えるうえでも、人それぞれに違った背景があって、それぞれに何かを思って毎日を生きているんだという実感を忘れないでいたい。

何よりも、「比翼~」は登場人物ひとりひとりがほんとうに人間臭くて、だから愛しい。山岡も茂男も、ほかにも山岡の上司や茂男の孫、弁護士などのキャラクターも、「無難でいること」にとらわれない、勇気ある人たちだ。そんな登場人物たちにパワーをもらえる作品だと思う。ぜひ実際に見てほしいなあ。

こんな感じで、舞台「比翼連理の果て」を観たら、もしかしたら自分が生きる社会に興味がない人たちにも「知ろう」とする動機が生まれるんじゃないか、と少し希望を持ったりしている。演劇で誰かの考えを感化しようなんてまあおこがましいから、楽しんで観劇していただいて、結果的にそうなったら嬉しいなという感じだけど。でも、そもそも政治とかわからん!って人には「比翼〜」はけっこう良い入り口なんじゃないかな。

以上。何が言いたいかというと、自由で豊かに生きるために、まず選挙行こうぜってことです。

 

おおぜきあい (Twitter @aiohzeki

 

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プロジェクト「Act」Tokyo 第五回公演『比翼連理の果て』
2019年8月15日(木)〜18日(日)
会場 平賀スクエア(五反田駅徒歩5分)
公演詳細・ご予約 https://actt.jp/lp

 

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このブログを読んで面白いと思った方は、私が次回出演する『主義を、食らう』も面白いと思います。宮沢賢治の『ビジテリアン大祭』が原案で、無意識に影響されている日常ってなんだろう、、というテーマの作品。女子大生がおじさんになったりします。
8月3日(土) 北千住BoUYにて。もしよろしければ是非!
公演詳細 http://buoy.or.jp/archives/program/pattun